【須坂市教委の米持遺跡発掘調査】鉄か製品の生産示す遺物検出

2020-02-22 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 須坂市教委が先ごろ米持遺跡(米持加持畑地籍)で実施した集合住宅建設に伴う発掘調査で、鉄の精製や製品を生産した場所を示す遺物が見つかった。発掘範囲の一部だが、約30平方メートルに広がる炭化物が混じった黒土から鉄の半製品が出土したことから「製鉄も含めて鉄を精製から製品まで作っていた場所か。不明な点は多いが…」と調査した高橋千穂学芸員(生涯学習スポーツ課・博物館兼務)は話す。
 時代は奈良から平安頃。調査範囲は約1,000平方メートル。昨年10月から今年1月17日に調査した。
 現時点で把握している検出遺構は?竪穴住居19基 ?土坑179基 ?溝(竪穴住居に伴う)6基 ?焼土跡5基 ?不明遺構4基―の五つ。
 ?は鉄の生産に従事した人の住居か。改修使用したようで重なっているものもある。広さは約5平方メートル〜16平方メートル。?は直径10cm〜80cmほどで柱穴や用途不明な穴。?は煮炊きと関係する排水溝とみられる。?はカマド以外で竪穴住居内外に見られ、「一部の住居は住んでいた生活感がなく、片付いている感じがした」(学芸員)。?は鉄の生産を示す遺物が出土した2カ所を含むが不明。
 鉄の遺物は細長い10cm程度の塊で10点ほどが出土した。
 米持遺跡は鮎川扇状地の右岸側扇央部に位置する。鮎川、百々川下流域に芳美御厨(はみのみくりや)があったとされる(市誌)ことから仁和の洪水(888年)との関係もありそうだ。
 高橋学芸員は「鉄か鉄製品かは不明だが、鉄に関する遺跡であることは間違いない。今後裏付けたい」。
 米持遺跡は古代のムラ、稲向郷の候補地の可能性が高い場所。加持畑の隣、木瓜原(ぼけはら)の発掘(2年前)では、竪穴住居の他に律令期の役人が腰の石帯(せきたい)に付ける丸鞆(まるとも)と呼ばれる円い石が出ている。周辺に鉄関連地名も見られる。

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